MIYANICHI e PRESS

MIYANICHIコミュニティー

絶壁のような急な階段を上ると、見覚えのある白い大きな建物が待ち構えていました。「お前はまたここに来たのか」と自問自答していると、たくさんの人が無関心の表情で通り過ぎていきます。

同じパターン、同じ場所や光景の出る夢を幾つか見ます。この夢もそのひとつです。もう何度見たことでしょうか。

しかし、昨夜はちょっと違っていました。天井の高い玄関を突き抜けるとプラットホームに行き着いたのです。「家に帰りたい」という思いがこみ上げ、慌てて電車に飛び乗りました。行き先は「明海」。車窓から見える景色は高千穂峡でした。先日の日記で月周回衛星に「高千穂」と名付けてみてはと書いたからでしょうか。電車は街並みに入ったかと思うと再びあの白い建物に戻りました。

夢はここで終わりです。早速辞書で「めいかい」を調べると、「明海」の2文字は見つからず、代わって「冥界」の字が飛び込んできました。何かの暗示でしょうか。一度フロイトに夢判断してもらわなくては。

おっとその前に、街頭演説で自民党総裁選候補者が脳内メーカーの話をしていたのを思い出し、もう一度名前を打ち込んでみました。私の脳内イメージはまったく変わっていません。半分が「眠」、半分が「遊」。それは夢のまた夢です。

宮崎の上空を飛ぶ飛行機を見上げて「これが国際線ならいいのに」と知人が言ったことがあります。私は「UFOならいいのに」と思っただけに、「質が高いな」と感心しました。10年以上前の話です。

でも、もしもUFOなら「Fly Me to the Moon」

フランク・シナトラの歌がBGMに合うかは分かりませんが、きょう月周回衛星「かぐや」の打ち上げが成功しました。

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愛称「かぐや」は公募で決まりました。今回のミッションにふさわしい名前だと思います。今後はネーミングライツ(命名権)を導入して、たとえば「高千穂」など宮崎の地名を使ってもらえるといいPRになるのでは、と中継を見ながら考えました。しかし、相手が宇宙だけに命名権契約料は「億光円」単位の金額になるかもしれませんね。

「かぐや」はこれから約1年間、月の表面などを探査するということです。月の起源や進化の謎が解明されるかもしれません。一緒に行ってかぐや姫に月の世界で犯した罪が何だったかも聞いてみたいものです(^^ゞ
活動が楽しみになってきました。

♪Fly me to the moon
Let me play among the stars♪

「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

明智光秀の娘玉こと細川ガラシャの辞世の句です。確か細川護熙元首相が引退会見で詠みました。花は散る時を理解し、ぱっと散るから美しい。人も同じで引き際が大事−そう解釈しています。

昨日、阿久悠さんが本紙インタビューで「美しい国ではなくて、美しい日本人でありたい」と語ったことを紹介しましたが、「美しい国へ」を唱えた安倍晋三首相がきょう辞任を表明しました。突然のニュースに「美しい」と「辞める」の言葉が交錯し、浮かんだのが冒頭のガラシャの歌です。

「もっと辞める時期があったはず」「きのう所信表明したのになぜ」。政界ではさまざまな意見が飛んでいます。

安倍首相に対しては、政治手腕よりも、次から次へと湧き出てくる閣僚のカネをめぐる不祥事とその対応の不手際さに批判が集中しました。閣僚は自分が決めたわけですから指導力不足を問われても仕方ないことでしょう。

自らの引き際と「部下」の散り際を誤れば、国民から大切な「時」を奪うことにつながります。重要課題は積もっています。政治が停滞してはいけません。

きのうの日記のつまらない落ちのせいか、どうも寝つきが悪く、熟睡できないまま朝刊を開くと「作詞家阿久悠さんを送る会」の記事が目に留まりました。ヒット曲が流れる中、最後の別れを惜しんだと書いてあります。

阿久さんの両親は川南町出身。そういう縁もあって、作詞家生活40年を迎えた今年1月1日付本紙に大型インタビュー記事が載りました。その中で阿久さんはこう語っています。

「美しい国ではなくて、美しい日本人でありたい。『美しい日本人とは何だろう』と1億2千万人に考えてもらわないと困る。生き方の中に、見てくれではなくて、美しいということを自問自答したことがあるか。知性が最優先される国でありたい」

小説「星の王子さま」でも「大切なことは目に見えないものなんだ」と、教えてくれます。阿久さんも同じことを言っていると思いました。どんなレトリックを駆使した美辞麗句よりも、とつとつとした言葉に心奪われることがあります。それはきっとその言葉が生きて、輝いているからです。

阿久さんの語りは続きます。「宮崎には『善意が生きている』というイメージがある」と。私にとっては気恥ずかしい思いですが、後生大事にします、この言葉。

午後から降りだした雨はまだやみません。インタビューを読み返していると、この雨にぬれ自分自身を見つめ直したい気分になりました。「雨雨ふれふれもっとふれ」。今宵はもっと降ってほしい。

「秋の日はつるべ落とし」とはよく言ったもので宮崎市内の日暮れも日に日に早くなってきました。

暦を見ると9月も10日。慌てて8月末締切の結婚披露宴の出欠返事を投函しました。その際、「ご出席」の「ご」は消してその後に「させていただきます」、宛名書きの「○○行」の「行」は「様」に変えました。最近このようなことをしない人もいると聞きます。作法の文化が消えていくようで寂しい限りです。

言葉の文化も危うくなっているようです。

文化庁の調査で「ぞっとしない」「気が置けない」などの慣用句を誤って理解している人が多いという結果が出ました。「そうは問屋が卸さない」を「そうは問屋が許さない」、「熱にうかされる」を「熱にうなされる」とした人もいたそうですが、「うーん、意味が通らなくもないか」と考えたりします。

と、文字や言葉を扱っている者がこんなことを言っていてはいけませんね。そう言っていると「肝胆相照らす」を「カウンター空いてます?」と聞き間違えて使ったりするかもしれません。意味は「2人横に並んでじっくり酒を飲む間柄」と。「うーん、これも外れてはいないような」

酒にうかされているぞ! とお叱りを受けそうですので、きょうはこれくらいでおやすみなさい。

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